蛇の回転と十数年 多分終わりに

”蛇の回転”と名付けられた錯視画像に出会って十数年経った。立命館大学の北岡教授の作品だ。それまで錯視には興味はあったが、脳が誤って理解するからだと思ってきた。何にも進歩しない理解だった。”蛇の回転”を見てびっくりた。静止画像がどうして動いて見えるのだろう。脳が騙されるという解釈で良いのだろうか。北岡教授にメールを送った。「私が説明します。」あれから十数年たった。「どうぞ。」って馬鹿にされたような返事をいただいた。私は全く素人だ。こんな分野を勉強してきたわけじゃない。いまでも心理学の勉強は面白そうだが、するつもりはない。爺の心理学ってやつだ。この齢じゃあ無駄だって思う。すぐ忘れる。腰痛で整形外科へご厄介になり始めた。リハビリにいろいろな人のお世話を受けている。お名前ぐらいは覚えようって思う。××さん。○○さん。・・・???。すぐ忘れちゃうのだ。勉強なんかしてももはや無駄だ。
 

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立体理解が変わると渦が変わる 渦が見える

広いように見える

ついに動く

2本の線が左下で交わっています。これが画面と同じ平面にあるのなら、45度から50度ぐらいで交わっています。けれども水平ラインに斜めに交わっている線が画面奥に伸びているのならきっと概ね直角に交わっているのでしょう。この画像を3次元空間にあるものだと考えればどちらかまるで分かりません。こんな理解に苦しむものがたくさん並んでいると困ってしまって気持ちが悪くなります。

上の画像を回転しました。斜線群付きラインと上下辺との傾きはほぼ見られません。

結局この画像の3本のラインは実際は平行なのですが、空間での存在の仕方の理解によっていろいろな見え方をするのだと思います。

3本の横ラインは平行のはずです。斜線が付いたラインは傾いて見えます。右が下がっています。きっと斜線群が画面奥へ立体的に飛び出ていると理解しているのだと思う。ラインそのものもPCの画面とは違う空間に存在していると理解しているのだと思います。

近くにイノシシがいる。それより少し離れてもう一匹いる。どちらがより近くにいるのかそれを知るのは生き物にとっては重要なことだ。大きく見える方が近くにいるのだろうか。そもそも目には立体は見えません。立体は脳が経験から作り出した幻の世界だ。真実とは違うかもしれない。大きく見えるものが近くにあるとは限らない。騙されれば命が危ない。いつでも網膜と言う平面に映し出された2次元画像から立体を理解している。立体は左右の目の像の違いから理解するんだと、それしかないと思ってきたが、人間はそんなに単純じゃない。確かに赤青の立体メガネ、偏向メガネなどで左右の像を見れるようにすると画像が浮かび上がってくる。けれども石造の表面などの立体的構造はそれでは分からないのだと思う。明暗とか視線方向の変化とかそういった情報があれば片目でもわかる。斜め前から撮影した立体像は網膜の表面に二次元の像として投影される。けれども立体を撮影した。脳は時としてこれを立体として理解できるだろうと思う。円形に配置すれば回転しているように見える。
2 雛の回転

3 斜めに傾けた円形シールを円形に配列する

視覚は網膜にある視細胞の興奮によって起こる。無限に広がる世界を直径5cmほどの小さな目の網膜に投影して始まる。人間の目の分解能は0.1mmだ。一番良い条件でも0.1mmより小さいものは見えない。1mmって大きいと思うが、1mも離れて見れば見えないだろう。視線を一生懸命向けても駄目だろう。近づけば見えるようになるかもしれない。それも中央視でないと駄目だろう。こんな小さな目ですべてを一気に見るのは無理なのだろう。眼の中央に視細胞を集めてここでしっかり見ようと言うわけだ。この間周辺に見えているものは90%とか80%とか結構適当に見ているのだろうと思う。と言うより視細胞が少ないのだからきちんと見えない。視線方向を変えて少しづつモザイク的に見ていくしかないのだ。視線を向けてその部分の画像が確定する。私はづーっと網膜上の視細胞の不均一な存在の理由を知らなかった。でも、これが錯視が起こる最初の理由だろうと思う。ついでだから、言っておくが、私は残像が現れる理由も意味も未だに知らない。誰かが説明しているが、そんな説明に合わない例がある。

面白い実験でたしかめる生物の不思議

ついでです。今、来年度の国語と数学の記述式問題の実施を延期した。ふ^む。世の中では入試の公平性が損なわれるというのが大きな理由らしい。ふ^む。入学試験は日本の学び方を提案しているのだと思う。私が高校生の頃はセンター試験はなかった。全部各大学の記述式試験だった。誰が採点したのか知らないが、公平性が保たれていたかどうかはよくわからない。一人で採点しても、採点開始時と終わりごろでは違ってくることが結構ある。多分普通は何人かで採点するわけだから、途中でいろいろ採点基準についての異論が出るだろうと思う。最後はエーイって言うしかないかもしれない。最後は採点責任者の独断で決めるしかない。議論を始めたら一枚の採点に一日はかかるだろう。80%ぐらいは公平かもしれないが残りの20%は不公平だ。けれどもオリンピックだって、体操でもフィギアスケートでも100%には公平ではないけれども、金メダルがでる。今ノーベル賞を受賞しているのはセンター試験なんかなかった時代の爺がほとんどだ。22世紀に向けての学び方改革こそが 入試問題になっていかないと日本の未来に希望があまり持てないのじゃないかと思う。