小学校、中学校には4時ルールって言われる規則があるらしい。知らなかった。最近TVで新型肺炎の報道の合間にブラックルールのように報道されている。岐阜県の教育委員会はその学校規則の見直しを通達したらしい。本当に学校現場の意見を集約した上での発表だったのか私は疑問に思っている。このルールが適用されるのは学校授業日でのことだ。夏休みとか冬休みなどの長期休暇中のことではない。普通の授業日でのことだ。地域や学校の特別な事情で授業が行われない時間でのことだと思う。地域での教育研究会とか(これが教育現場に本当に有用なのかどうかは私は疑問に思っているが。それとは別だ。)家庭訪問期間中とか、特別な職員会とかが開かれる時の話だろうと思う。本来は授業日なのだ。午後は放課にして実施するのだ。そうしなければ勤務時間外にやるしかない。月に1回とか2回ぐらいのことだ。5限授業にして放課にするのだろう。児童生徒たちは家へ帰ったら、自宅で自習をしなさいということなのだろう。3時までとか4時までとかは自宅へ帰っても自由時間じゃない。この間は自学をしなさいということだ。この措置のどこが問題なのだろうかと思う。問題があるとするなら、平日の授業時間内に会議を行うことだろう。それなら研究会を勤務時間外に出すしかない。なお、夏休みなら小学生に対して朝10時までは家で学習しなさい。原則として外出しない。そうした規則があっても私は問題はないと思います。
 教育委員会は現場の意見を代弁することも必要だと思っている。学校のすべての規則がブラックルールのようになっている。遅刻をしても平気。廊下でサッカーをして注意されれば、教員を殴ってくる。消化器は泡となって使い物にならない。弁償を課しても払わなければそれまでだ。担任が取り立てに行くことになるだろうが、教員は何をやっているのだろうか。規則や力で学校を守れとは言わないが、やりたい放題ができるってことは決して良くないと思う。だ~れが生徒か先生か♪。皆でお遊戯しているよ♬。でも、それにしても、こんなに平和じゃない。チーチーパッパ、チーパッパ♪雀の学校の先生はー♪鞭をフリフリチーパッパ。こんな学校も駄目かもわかりませんが。

 さて、続きを。新浸透圧説明モデルだ。分子は次第にバラバラになって混沌とした状態になる。ガモフの不思議の国のトムキンスだったかな。読んでみると良い。水に砂糖を入れておけば、十分長い時間すれば何処を飲んでも同じ甘さになる。やったことはないが、きっと待ちきれないほどの時間がかかるのだろう。この時に間に大きな分子は通さないが、小さなものは自由に通す膜というか障害物があるとどうなるのだろうか。浸透圧はどうでも良いが作ってみた。分子の代わりに大きい(実際は小さい粒を4つ接着した)、小さい発泡スチロールの粒を買ってきた。分子はいつでも自然に運動している。きっと温度がある以上そのエネルギーが運動に変わるのだろうと思う。ドライヤーで冷風を送って発泡スチロールを運動させる。教室の後ろまで届くように延長コードを持っていく。右が高くなるのか左が高くなるのか、教卓で予言をしてやって見せる。私は著名な予言者になれるのだ。(浸透圧とは関係はないが、ついでにここで浮沈子かガリレオの温度計を見せれば完璧かもしれない)大抵「貸して見ろ」って言いだす。マジックの種を調べるようにやりだす。大抵、3人か4人ぐらいがやってみると網を自由に通過できるスチロール球と通れない接着されたものがあることに気が付く。「先生はずるい。当たり前じゃない」って言うが、どこか嬉しそうに言う。こうして、原形質分離の実験をすれば水分子がどのように移動するのか簡単にわかるだろう。ただ、最近は大きな分子が網にぶつかって跳ね返るとき反対側の水を引き連れていくとも説明をしている。浸透圧には両方の力がかかわっているのだろうが、後者は最近言われるようになってきたと思う。、なるほど。ちょっとだけ講義になった。続きは・・・。

 十数年も前だ。蛇の回転と言う錯視図に出会った。びっくりした。静止画が勝手に動いて見える。脳波を調べたり、MRI、***。分かったような分からない説明ばかりだった。立命館大学の北岡教授に「僕が説明して見せます」って言った。「どうぞ」って言う馬鹿にされたような返事をもらった。十数年もかかったがこれで良い。まだ疑問は残るが、概ねこれで良いと思うようになった。だから、もう、このホームページは自分のなかでは終わってもいいかもしれないと思っている。
 40年も前に教員になった。進学校を目指す学校がほとんどだった。試験問題の作成には3週間近くかかったこともあった。過去の大学入試問題を調べた。そのままでは面白くないから、オリジナルの問題も入れたからだ。なんであんな教え方をしたんだろうって今では思っている。
 1994年にマラヤ大学の日本留学特別コースの学生の教育のためにマレイシアへ行った。私が直接教えたのは20名だった。日本語の教科書を読み上げるのが最初の授業だ。よく頑張ってくれた。私なんかよりはるかに秀でた努力家でもある学生だったと思っている。一年後は日本の色々な大学へ留学していく。挫折した学生が2名出て、涙が出た。日本の学生よりはるかに努力していたと思うが、わたしにはどうしようもなかった。科学は実験が大切だと思うが、何もできなかったが、負けないで一生懸命頑張ってくれた。私は彼らの努力に頭を下げるしかなかった。そして彼らが頑張れるのはその心だと思った。やがて日本の大学で4年間学んで実験して卒業していくはずだ。知識が一番大切だとは思わない。知識が最も大切なら、この学生たちを日本の大学へは送れないだろう。頑張れって言うだけじゃ頑張れないだろう。日本ではこの頃不登校などといった学生が沢山出てきていたと思う。原因はよくわからないが、学校が変わるしかない。本当に理想に思うことを追求することだ。
 日本へ帰ってきたとき、私は教壇から降りようと思った。知識は面白いと思ったら自分で勉強すれば良い。だいたい若者には時間がある。365日実験をやりながら授業が出来たらいいと思った。イギリスのクリスマスレクチャーのような授業が夢だ。料理のレシピのような実験はやりたくなかった。疑問をその場でたしかめていくような授業が夢だ。実験室は危険がない限り生徒に解放されている。試験管やビーカーは必要なだけ棚から自分で出せば良い。
 昔、教員になりたての頃のことだ。マラソン大会というか競歩大会というか、走ってもいい。歩いても良い。弁当を持って10kmなのか20kmなのかを遠足のようでそうでない大会があった。早いものは1時間もあれば帰ってこれる。遅いものは夕方になる。新任教員は最後を受け持った。途中ガマの穂を見つけた。開くと綿のように白い毛が玉のように開いた。大切に持ち帰った。シャーレに入れて翌日授業に持って行った。一年生の授業で「なんじゃもんじゃじゃない、ケサランパサラン、って言うんだ。大学でもらってきた。おしろいに入れておくと知らないうちに増える」当時TVなどで流行っていた。「大切なものだから、絶対触るな」と言って、回した。「ほ~。そうなんだ」って言いながらガマのなんじゃらほいはもどってきた。「全部嘘だ。なんでも信じちゃだめだ。先生だって嘘を言うかもしれない」って言った。不思議に思ったら自分でたしかめてみることだ。同じことを3年生でやった。絶対触るなって言ったのに一列目で「先生、なんかおかしくありませんか」って言いだした。綿のようなガマの穂をほぐしてみたらしい。「これ何かの種じゃありませんか」絶対触るなって言ったはずだ。叱ったらいいのか褒めたらいいのか分からなかった。
 ついでに、教員になって初めて受けた質問は覚えています。「バレリーナなどがあれだけぐるぐる回っても、目が回らないのはどうしてですか」答えられないと思ったのでしょう。残念でした。本で読んだばかりでした。自分では試したことはないので実際にはよくわかりません。が、最近、TVでフィギアスケーターが実は目が回るのだと言っていた。分からんようになった。
 さて、浸透圧の新型説明機は面白かった。そのうちへ。
 

昔、40年も昔のことだ。8バイト(?)ぐらいのコンピューターで計算する授業が理数科で行われていた。なんとも不便なPCだった。だいぶ考えないとありきたりの計算が出来んかった。けれども学ぶならこういうものの方が良いかもしれない。普通の足し算とか掛け算、割り算なら、手動式の手回し計算機のほうがはるかに便利だった。四則演算を学ぶならこの機械が最適だろうが、高価すぎる。そのうちbaisicで動くPCが発売された。この時代は日本の企業も世界の先端で頑張っていたと思う。やがて平の教員でも買える家庭用のPCが発売された。この機械は機械語エリアを持っていて機械語でも動かすことができたが、普通の人ならbaisicでプログラムを作ればよかった。十万円前後だったと思うが、物理の先生と一緒に購入した。彼は機械語が使えたが、僕は無理だった。勉強はし始めたが、PCは暴走しかしなかった。暴走したら一度電源を切って再び機械語エリアにアクセスしなければ次の操作はできなかった。機械語の原理を勉強するのは面白くないから、冊子を見ながら打ち込んでみる。正確に機械語プログラムを入れたつもりでもどこか間違っている。あの数字の羅列のような物の一か所でも間違っていれば動かないのだ。アセンブラーはPCを勉強しない私でも使える物にしてきた。機械語が分からない私には便利にはなってきたかもしれないが、中身は分からないままだ。ついでだがきっと量子コンピューターに挑戦するならとりあえず機械語の勉強はしておいた方が良いかもしれない。が、僕ではもう駄目だろうって思う。basicで2、3のプログラムは作った。たいしたものではなかった。採点ソフトと点滅点が人が歩いているように見える錯視プログラムだった。馬鹿じゃ。そのうちPCはもっと進歩してきた。言語が一杯できてきた。同時にプログラムソフトを管理するソフトが出てきた。言語はいっぱいある。ソフトをつなぐソフトがある。もう何がなんじゃラ分からなくなった。どうせ、PCは分からないからもうやめようって思った。携帯もスマホも持たなかった。1994年頃は日本にはほとんど携帯はなかった。あっても、学校は携帯の侵入を激しく拒否をしてきた。この年私はマレイシアへ行った。日本の大学へ留学してくる学生に生物の事前学習をさせるためだ。驚いた。レストランでは何やら大きな声で一人でしゃべっている人が結構いる。歩いていると後ろから大きな声で話しながらやってくる。携帯電話だ。東南アジアでは日本より早く携帯の時代に突入していた。やかましい。ルールやエチケットができないまま、携帯の時代になったんだろう。町は自動車もだけれど、自転車や二人乗りとか三人乗りぐらいのバイクがあふれていた。この時まだ一般にはワープロの時代だった。コンピューターなんか使わない。人間の手書きの物の方が味があるって胸を張って言えた。一年して帰国したら、学校は携帯電話の普及と闘っていた。教育現場では普及を拒否してきたが、負けた。今、世界中でスマホが溢れている。僕は相変わらず使っていない。こんなものが使えるようになっても、賢くはならないだろうって思っている。スマホを使っていればITを使いこなしていると思うかもしれないが、それは全く違う。スマホに使われているだけだ。多分、理工学の専門書は全く売れなくなっているに違いない。スマホは沢山の情報を確かに発信しているが、大抵は日常生活の助けになる普通の情報だ。このままいくと日本の技術、科学はスマホやAIや英語によって絶滅させられるかもしれないなどと思っている。暇さえあれば、スマホを見ているだけの日本の若者。不登校は増えるが、学校は若者の我儘の天国。教師の生徒への暴力は社会問題になっているが、それよりはるかに多い生徒から先生への暴力は不問に付されている。世に出てこない。先生への暴言は許されるものではないし、暴力はいかであれ、最低でも退学処分だと思っている。学校教育が成り立たなくなる。先生の否は先生の否として別に処分される問題だろう。

 ちょっと暇だから、というかショウガの収穫と、富有柿の無料道端店の柿取りと、山芋の収穫の合間に来年の年賀状を作り始めました。昔の友達は高齢を理由に年賀状を作るのを止め始めた。僕はどうしようと思っている。この何年間かは郵便局の無料ソフト、はがきデザインキットを使ってきたが、今年はソフトがなくなった。住所録しか使えない。が、実にかってだ。過去に作った賀状を見てみたいが、表示できない。僕はあて先はせめてもと思って手書きを通してきた。住所録は作っていない。郵便局は倒産したのか。やむを得ず今年は一太郎で作り始めたが、再来年はどうするべ~。もうみんなと同じように止めようか、

左は立命館大学の北岡教授に「梶田の色のきらめき格子」と名付けてもらった錯視図です。水色の格子の交差点は薄い灰色ですが赤色に煌めいて見えます。そうなんだと思えばそれまでです。が、虎の後ろ脚の下の交差点の楕円を見てください。赤ではありません。その下の交差点を見てください。色はありません。その左の交差点を見てください。視線を向けたところは赤色ではありません。・・・・。煌めいて見えるのは視線方向をたえず変えながらこの画像を見ているからです。周辺視にすると色が見えると思う人がいるかもしれませんが、それは違います。中央の虎をじーっと見つめていてください。周辺のきらめきは消えてしまいます。周辺視で色が見えるわけではありません。赤色を使っていませんが、赤く煌めいて見えます。この赤色はどこからきたのでしょうか。画像の色を反転すると分かると思います。さて、

上の左の図の色を反転しました。格子は赤色、窓は薄い灰色、格子の交点は黒くなって水色に煌めいています。関係ない操作がしてありますが、気にしないでください。

右の画像 上の左の画像の補色残像を見るためのものです。残像では格子は赤色に見えるはずです。窓は白色。交差点の楕円は黒に見えるはずです。・・・・格子は黒っぽい赤。窓はほぼ白。交差点の楕円は黒じゃなくて黒に水色に見えます。

 最初の画像の右の絵は「梶田の色のきらめき格子」を変形したものです。きらめきはなくなります。しかし斜めに右下に下がる赤い帯が見えます。この画像には赤色は使っていません。中央の虎を見つめてください。視線方向を変えないでください。ちょっと難しいかもしれませんが、我慢してください。赤色の帯は消えます。赤色の帯が見えるのはこの画像を視線方向を変えながら見ているからです。なぜ視線方向を絶えず変えながら見ているのでしょうか。眼球が小さいからでしょう。網膜の中心の黄斑に映った像は良く見えるが周辺は視細胞が少なく、あまりよく見えません。中央で見た画像情報を得るために視線方向を変えてスキャンしています。視線方向を変えると残像が生じてしまいます。この残像はこの画像なら斜めの赤い帯部分は水色に見えます。この色の補色は赤色です。残像の残像になるかもしれません。残像がなぜ現れるのかは私には今まだ分かりません。補色残像では水色は赤色赤色は水色に、黒は白、白は黒に、3種類の色覚に関する検出器の疲労度によって説明されていますが、それほど簡単じゃありません。特に黒、白はよくわからない。
 初めの画像で、中心視になっているところは良く見えていますが、周辺視のなっているところはしっかり見ていません。交差点は格子の水色に塗りつぶして理解しているのだと思います。

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