絹の糸を紡ぐ
 
昔、若い社会の先生がやってきた。トイレの日本とヨーロッパの歴史を授業でやりたいということだった。ついては私に活性汚泥について授業をやって欲しいということだ。もちろん了解した。彼はその前にも野麦峠の話をしたいが、実際にマユから糸を取り出したいから実験室を貸して欲しいと言ってきたことがあった。もちろん了解した。
 あれから数年経った。私は生物の授業でやってみることにした。マユを手に入れるところはもちろん聞いていた。断られれば実験はやれない。そんなこともあって誠意を込めて話してきた。教育の話とか伝統工芸の話とか2時間近く話したと思う。ここはNPO法人だ。絹の製糸産業の最後の整理をしていると言った。皆が絹の生産を止めていくが、機械とか資料とかを保存しておきたい。廃業の情報を入手したら博物館とか大学と連絡を取って今はもう作れない機械を保存してくれる機関を探してそこへ送るのだそうだ。和紙は観光も含めて今でも生き続けている。絹もまたそうゆう生き方が出来なかったのだろうか。ついでに野麦峠の女工史は悲哀史として有名だが、何処でもそうだった訳ではなかったらしい。このあたりでも昔は養蚕が盛んだった。製糸会社もあったが、野麦峠のようなことはなかったそうだ。指導者というか雇用主の人間性の問題だろう。私はビニール袋一杯のマユを分けてもらって学校へ帰った。
 パスツールとファーブルの誤解から発展した激しい喧嘩のことを思い出した。絹の製糸産業は国力を示す重要な産業だった。パスツールはフランスの偉大な化学者だ。絹の研究は国の発展に欠かすことが出来ないことだった。パスツールは国の依頼で研究することになったらしい。けれども彼は化学者だった。カイコは知っていただろうがその蛹はは知らなかった。彼はフランスの偉大な昆虫学者ファーブルに教えを請いにいったのだ。パスツールは発酵を研究したことがあった。きっと親愛の意味を持ってだろうが、「あなたの家のワイン貯蔵庫を見せて下さい」と言った。ファーブルの家にはなかった。これが大喧嘩の発端だったらしい。大統領に意見が出来るほど華々しい輝いた研究生活をおくったパスツールと、苦難に満ちた生き方をしたファーブル。どちらが幸せな人生だったのだろうか。それはよく分からないが、どちらも一生懸命だったのだろうと思う。昔、まだ教師に成り立ての頃。私は学生時代は光合成の研究室にいた。大学から離れてからも何某かのその続きをやろうと思った。最低でも分光高度計が欲しかった。大学の後輩に設計図を送れって依頼した。この後輩、設計図を送ってくれたが、馬鹿じゃないとも言ってきた。買った方が早い。その通りだろう。自分だって分かっている。大学時代に購入して枕か漬け物の重しに使っていた「土壌動物学」と言う本を始めて開いた。日本にはほとんど研究者がいないと書いてあった。それなら自分だって何かできるだろうと思った。この時から私は毎日、朝、土を採取して学校へ行った。まるで分からなかった。大学の生態学の先生に弱音を吐いて手紙を送った。「焦ることはありません。ファーブルは40歳過ぎてから本格的にあの仕事を始めたのです。」その手紙を大事にしまっておいたが、今どこへいったのか分からない。教員免許証だって何処かへ消えた。どちらも今はもうどうでも良いものになった。
 ところでカイコの糸の実験の話だった。忘れるところだった。あの糸は一個について約1.8kmほどあるらしい。生物が作った糸だからきっとタンパク質なんだろう。セリシンと呼ぶ(セリシンと言っても訳が分からないが )蛋白質が繊維をのり付けして固めているらしい。高温にするとこれが溶けるようだ。ビーカーにマユを数個入れて水で煮る。割り箸でそれぞれのマユから一本ずつ糸を取る。そんな神様みたいなことができるのだろうかと思うが、心配することはない。初め沢山の糸が取れるかもしれないが気にしないで引き出せばそのうち一本になる。当たり前だ。マユを煮ながら糸をペットボトルなどに巻き付ければいいが、ダイナミックにやるなら、そのまま廊下へ引っ張り出すのも面白い。皆で協力が始まる。糸の先を持って先頭を行く者。マユから糸を引き出す者、途中を持って糸を送り出す者。廊下の端で曲がって階段を下りていった。最後に糸にニンヒドリンをかければ、やがて青から紫に発色する。結構面白くはまるらしい。くだらないと思うかもしれないが、あのパスツールでさえ知らなかったことだ。いつまでも、中の蛹が見えるようになるまで続ける者がいる。だからどうってことはないように思えるが最後までやりきるって体験は大切なことだ。蛇の塗り絵だって途中で止めるならあまり教育的ではないと思う。
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-面白い実験でたしかめる生物の不思議-

サイエンスじゃらんーじゃらん
           本当は ジュクじゃが
アクワイアー・桜